発達障害と聞いて皆さんはどういったご意見をお持ちですか?
私はお医者さんでも専門家でもありませんが、子供を育てた者の思いです。
最近「発達障害」という言葉をよく聞きます。
悩んでおられる方も多くいらっしゃるのではないでしょうか?。
・発達には個人差があって当たり前では?
・発達障害って病名は必要?
・運動神経の良い人、勉強の出来る人、みんなを楽しませるのが得意な人、大人しい人、優しい人 等、得意も苦手もあってそれが人間というものであり、個性なんじゃないでしょうか?
苦手をプラスに変える又は別の得意で補う事が魅力なんじゃないかなぁ…。
と思う。
それをも越えて、回りに迷惑をかけたり助けを求めないといけないレベルなんじゃないかなぁ。
片付けが苦手、もしくは片付けが出来ない人が、実は発達障害だったといった例がありますが、その人自身が散らかった部屋でも平気だったり、その部屋で落ち着くと言うのであれば、その人にとってその部屋は普通であり、そこに第三者が入るから散らかってる になるんじゃないかな。
世代や住んでる地域、世界でも常識が違うことってある。
私の上の子供はお姉さんタイプできちんと言うことを聞くお利口タイプ
親や先生からしたら、とっても“いい子”なんですが、その子自身で考えた時、無理してたり顔色伺ったり、子供なのに本当にそれでいいのかな?とも思えます。
周囲の人にはいい子で接していても、自分自身の中ではとっても厳しく無理してるのかもしれません。
だけど、私は上の子は普通だと思っていました。
そういう無理が大人になってから、不調を訴える人もいるかもしれません。
そう考えるとやっぱり、普通に育つってどういうことかと思います。
その家庭、親、自分の価値観が基準なのではと思います。
病名ばかりが有名になりすぎて、自分や子供にそれらしいところがあれば当てはめてはいないでしょうか?。
例えば〝発達障害の可能性がある〟と言う診断でも「発達障害」にすりかわってはいないでしょうか?。
なんとなく、占いの結果に似た部分があり危険だとも思います。
発達障害の要素は誰でも持っているものだと思うから。
「普通に育ってくれたらいい」とよく言いますが、本当は一番難しい事なのかもしれません。
生まれつき脳機能の発達のかたよりによる障害。
その症状は外見から分かりにくく、周囲とのミスマッチから社会生活に困難が発生することがあります。
発達障害の特性を「自分勝手」「わがまま」「困った子」などと捉えられてしまい、「親の育て方が悪い」「怠けている」と批判されてしまうことも少なくありません。
得意・不得意ゆえの困難さは、特性に合わせた方法で関わり教育をしていくことで、周囲がその子の個性・能力・希望などを理解した上で、その子に合ったサポートをしていくことが大切です。
①自閉症スペクトラム(ASD)
対人関係・社会性とコミュニケーション能力に困難があり、興味や関心の幅が狭く
物事に強いこだわりがあり、柔軟な思考や変化への対処が難しい人もいます。
②ADHA(注意欠陥・多動性障害)
「気が散りやすい」「集中力がない」「忘れっぽい」「落ち着きがない」「思いつきで行動してしまう」など年齢に見合わない不注意、多動性、衝動性によって学業や日常生活に支障が出てしまいます。
感情や行動のコントロールをするのが自分では難しいため、周囲から批難を受けてしまいがちです。
③学習障害(LD)
知的発達に遅れは大きくないはずが、読む・書く・話す・聞く・計算など特定の行動が困難になることが見受けられます。
読めるけれど書くことが苦手、算数など特定の科目が理解できないなど偏りが見られることが多い。
という事です。
数値で計る事が出来ないため、判断基準がものすごく難しいです。軽めなら、もしかしてある程度誰にでも心当たりがあるのではないかと思います。
今一度、子供や自分を見つめ直して、本当に該当するのか、もしくは何かの加減でそうなってしまっているのかの判断をして頂き、柔軟に対応していただきたいです。
発達障害という総称はざっくりしすぎて本当に必要なのでしょうか?
そういうところが、発達障害グレーが存在するところなのでしょう。
下の息子はもう20才を過ぎましたが、赤ちゃんの頃から大変個性的な子でした。細かな出来事はまた後日にお話するとして
保育園の時、息子がなつかない先生から「一度専門家に見てもらった方がいいかも」のニュアンスを言われたことがあります。
息子は幼児ながらに好き嫌いがハッキリしていて、嫌いな人(ここではそういう表現にしておきます)の言うことは全く聞かなかったので、
発達障害の特性を「自分勝手」「わがまま」「困った子」などと捉えられてしまい、「親の育て方が悪い」「怠けている」と批判されてしまうことも少なくありません。
というところから、勧められたのかもしれません。
今ほど、発達障害が認知されていなかったため、なんだか不快な思いをした覚えがあります。
お子さんや自分自身が発達障害との診断を受けた方が、「発達障害と診断されてスッキリした」等のコメントを見かけますが、本当にそうでしょうか?
私は人間としてとても未熟なので、そういう機関に子供を連れていくのにも迷うし、ましてや発達障害との診断を受けてしまったら、認めたくない気持ちと、とてつもなく自分を責めてしまうと思います。
それ以上に、一番怖いのは子供の可能性を潰してしまうかもしれません。
この子に、こういうことは無理だから…と、少し苦手な事は全くさせなかったかもしれません。
(実は覚えるのに時間がかかるだけで、覚えてしまったら難なくこなせるようになることまで)
子育て時代は、この子が他の家で生まれていたら、もっと上手に育てて貰えたのに…と何度も思いました。
ゆとり教育の中で、私が唯一良いなと思った事は、個人の個性を大切にしてくれたところ。
そして、たまたま小学校時代、子供の性質に合った先生方に出会わせて頂いた事と、友達やそのお母さん方にも恵まれた事が、「個性的でユニークな子」のまま成長出来たのではないかと思います。
周りの環境と理解というのは本当に大切なことです。
昭和の時代は良くも悪くも、ガキ大将的な子や、引っ込み思案な子など、ごちゃ混ぜで生活していて、いじめもあったかも知れないけど、近所のおじさん・おばさんに怒られたり、兄弟もいる家庭が多かったので、兄弟に守られたり、子供同士で上手く教えられながら、身に付いて覚えたことが、今ではお母さん一人の手にかかっていて、子供の目線にもなれず難しいのかなと思う部分があります。
昔はもみくちゃになりながら、いつの間にか克服出来ていたこと。今は個性を大切にする時代で人それぞれ個性があるという理解があることで、融合させてもっと住み良い世の中にならないのでしょうか。
しかし、現実問題、今は個性を大切にする時代と言いながら、ある意味守られてもいますが、なかなか生きにくい世の中になっているのだろうと思います。保育園や幼稚園に入る頃から、世話焼きのお姉ちゃんや、やんちゃだけど頼りになるお兄ちゃんがいない中で、荒波に投げ出されのは幼い子には過酷だろうと容易に想像できます。
発達障害とは社会のルールの中で、苦痛に感じる事、できなくなってしまう事、わからない事(理解できない事)。かな
大人でも新しい事を始めるのは勇気が必要だったり、不安や緊張するのに子供はなおさらです。
早期の対応が必要なのは、回り道をせず、将来の可能性を広げられること。
得意、不得意を理解しておくこと。
決して成長しないわけではありません。
発達障害の子も普通の子のどちらかが我慢しなければならない事があってはいけない。
我慢しなければならない環境があるから、いじめに結びついてしまうのではないでしょうか。
個性を大切にしつつ、いじめに繋げないためにも、人間誰しも不調や合わない環境下に置かれると、少なからず不調が誰にでも起こり得ると言うことの教育も必要。
得意な子は苦手な子を助け、苦手な子は苦手を理解し、そして、助けてもらったら、必ずありがとうと感謝する。
特別教室等がある場合には誰でも出入り出来る環境作り、体の調子が悪ければ保健室へ行く と言うようなイメージ作りも必要かなと思います。
だけど、やはり社会は普通を求めています。
一度そういう教室に足を踏み入れたら、烙印を押されたような、もう もとには戻れないような、なんとも言えない覚悟が必要なように思えます。
子供の頃は親が守ってあげるのでそれでいい、だけど学校や社会にまで親が目を光らせる訳には行かない、今は昔のように親の代わりに叱ってくれたり、正してくれる大人もいない。
得意も不得意もありますが、
成長する過程で、人に迷惑をかけない、友達を大切にする、思いやりの気持ちを持つ事
そして、社会に出て自立し、あわよくば何かお役に立てる人に成長出来れば、それでいい。
親の出来ることは、そのサポート。その子の特性をいかに発揮できるか、特性に合った職業に導けるかではないでしょうか?。
数年前、ある若手の俳優さんが暴行事件を起こして、社会問題になりました。ドラマやバラエティー番組で見かける度に、自分の子供と同世代ということもあり、なにより発言の自由な所が面白く応援していました。
その話をたまたま友達としているとき、「あの子発達障害やと思っててん、言動見てたらわかるわ~」と言っていて、とても不快な思いをしました。
発達障害=問題児 なイメージ
上手く立ち回っているうちは 個性的な子で評価され、事件を起こしたら、やっぱり発達障害…
違う
発達障害って何?
人間ってそもそも未熟なもんじゃないの?、完璧な人間なんていないはず。
世間の目って怖いです。
大切なのは、誰もが不得意も含めて自分の特性に気づくこと。得意は人の役に立て、不得意は出来れば、魅力に変えられること、一番危険なのは、不得意に気付かないこと。
先日外食をした時、隣の家族が(おじいちゃん、おばあちゃん 共に50~60代、おかあさん20代、赤ちゃん1才前くらい)テーブル席に座っていて、おじいちゃんおばあちゃんの間にあかちゃん、向かいにお母さんが座って、おばあちゃんがあかちゃんに一生懸命ご飯を食べさせていました。
あかちゃんは口の中に食べ物が入って入るときはいいのですが、飲み込んだらキーキーと食事中ずっと叫んでいましたが、家族の誰一人注意はせず、もくもくと自分の食事をしていました。
あかちゃんだからですか?。生まれたてのあかちゃんならまだしも、もう一才くらい、しつけないの?。
例え赤ちゃんでも泣くと「おっぱいかな?」とか「お風呂入って気持ちよかったね~」とか会話があるはず。
そういう子が大きくなると、公の場所でも騒いだりするかもしれません。①教えられなくても、静かに出来る子もいれば、②一度注意したらわかる子、③何故そういう場所では静かにしないといけないか、しっかり話してあげなくては理解出来ない子もいるかもしれません。③に理解出来る子が、ただ静かにしなさいと注意され続けたとしても、何百回注意しても解りません。
発達障害だからではなく、親も色んなパターンで導いてあげて欲しいです。
教育方針は家庭で違うけど、公共の場での振る舞いや、マナーは共通のはず。
「うちの子は発達障害だから」 と言うのは身近な人間だけ。他人は関係ないことです。世間で普通といわれてる事からはずれると、悲しいですが非難されてしまいます。
子供が言うことを聞けなくても、聞かなくても、親が何度も繰り返し子供に言い聞かせなくてはいけない。それが親。
成長と共に
家庭から学校 学校から社会へとコミュニティが広がっていくにつれて、親から離れて行きます。いつまでも親が守る訳にはいきません。
私は子供の成長過程で、色々考えさせられました。
「へー、そんな考え方をするのか」と思うことがほとんどですが、親も柔軟な思考が必要、一緒に成長をすればいい。
人間力を磨いて、苦手をフォローしてくれる友人や 自分に合った職につける事が親としての願いでもある。
息子は紆余曲折ありながら、上京して独り暮らしをしています。学生時代の上京組が近くに居ることと、とにかく入社した会社が思いの外いい加減(息子の性格に合ってる)だったという所に親としてホッとしているところです。
子供達が今後どうなっていくのかわからないけど、親というものは死ぬまで親というものですよね。
私は自分が不完全であるため、子供に対して自分に無い発想や、得意とするところ、人間性にすごさを発見すると、素直に感心し、本人にも伝えます。
親だから完璧と言うわけではないので、子供から学ぶ姿勢でいると、きっともっと楽かもしれません。
子育てが一段落し、振り返って見るならば、もっと子供が感じている事を聞いて、自分もその目線になってみたら、違う世界が見えてきたかもしれません。
- 乳児はしっかり 肌を離すな
- 幼児は肌を離せ 手を離すな
- 少年は手を離せ 目を離すな
- 青年は目を離せ 心を離すな
という山口県の教育者の先生がまとめた言葉があります。この言葉は私の子供たちの小学校の校長先生も仰っていて、今でも覚えています。
まとめていて、私の中ではやっぱり発達障害という総称は要らないかなと思います。
もしかしたら、逆に発達障害が時代の最先端で、時代や世間がついていけてないのかも、そのうち発達障害という総称は無くなると期待します。
そして、息子がしでかした出来事を書くと、きっと安心される人も多くいらっしゃるかと思うので、次に繋げたいと思います。